About Amami 奄美のこと

History 歴史

奄美の歴史は教科書には出てきません。けれど重要でないかと言えば決してそうではありません。
それどころか、ここは日本史を理解するうえでとても重要な地域です。

奄美の歴史はおおよそ次の様に分けることができます。

奄美世 [アマンユ]

8~9世紀(奈良・平安時代初期)
集落単位・血縁関係で生活していた時代。

わが国の歴史書に奄美の名があらわれるのは、七世紀後半から八世紀の頃です。海見、菴美などと書かれ、大和朝廷に方物(地方でできた産物)を献上したりします。『日本書紀』『続日本紀』の記事から、古代国家と南西諸島は、奄美大島を拠点としながら朝貢を行う緩やかな政治的関係が維持されていたと理解されています。

按司世 [アジユ]

9世紀~15世紀(平安・鎌倉・室町時代)
地域で勢力を持った者が現れてくる。

平家伝説

壇ノ浦の戦い(1185)で源氏に敗れた平氏の残党が落ち延びてきた、という伝説が奄美各地に数多く残っています。

平行盛(たいらのゆきもり)、平有盛(たいらのありもり)、平資盛(たいらのすけもり)は、最初は喜界島に逃れ、後に大島に渡ってきました。行盛は龍郷町戸口に、有盛は名瀬市浦上に、資盛は瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に居を構え、家来を各地に配備し、源氏の追随に備えていた、との伝承があります。

奄美大島にはこの3名を祀る神社が現存しています。

宇検村倉木崎海底遺跡

平成6年に海底で、12世紀後半から13世紀初頭の中国製の陶磁器が約2,300点あまり発見されました。

12世紀後半~13世紀前半の中国交易船が沈没した可能性があるとして注目を集めています。

宇検村生涯学習センター「元気の出る館」歴史民俗資料展示室はその遺物の一部を見ることができます。

那覇世 [ナハユ]

15世紀半ば~17世紀初頭(戦国・安土桃山時代)
琉球王国統治時代。

15世紀初頭、沖縄本島に「琉球国」が成立します。琉球国は、数度、奄美群島に軍事侵攻していて、おおむね15世紀中頃には奄美群島を統治下に編入したと考えられています。琉球国の奄美群島支配統治により、琉球国の行政機構が奄美群島にも適用されるようになります。現在の地方自治体に相当する「間切」と呼ばれる行政単位が導入され、奄美大島は7間切(笠利・古見・名瀬・住用・屋喜内・東・西)区分されていました。

行政統治する役人と同時に、重要な職務を与えられていたのが、ノロとよばれる神女たちです。そうしたノロ祭祀の神女(神役)が、奄美大島・加計呂麻島の各集落には、数は激減していますが、まだ現存しています。

龍郷町 秋名集落で毎年行われるノロの祭り「平瀬マンカイ」
大和世 [ヤマトユ]

17世紀~19世紀半ば(江戸時代)慶弔14年~
薩摩藩(島津家)統治時代

1609年、薩摩藩は琉球を征討し、以後奄美は薩摩藩の領土となりました。

1830年に藩の財政立て直しため、黒糖は藩が総買い上げする制度が始まると、サトウキビ栽培のプランテーション化は、奄美群島全域で著しく進行していくことになります。

明治維新を主導した「薩長土肥」の中でも、薩摩藩が果たした役割は際立つものがあります。その薩摩藩財政において、奄美群島で生産された黒糖が果たした役割の大きさは、認識しておかなければならないところです。

西郷隆盛

維新の三傑・西郷隆盛は安政の大獄から逃れるため、薩摩藩により奄美大島に隠されました。3年の潜居期間は身分も隠し菊池源吾と名乗っていました。

この時に島の女性「愛加那」との間に二児(菊次郎と菊草)を授かります。

愛加那と西郷が最後に暮らした場所が今も龍郷町に残っています。

近代

(明治・大正・昭和)明治12年4月
鹿児島県の行政下となる

明治政府は、1871(明治4)年に「廃藩置県」を施行しますが、これに伴い琉球国は、1872(明治5)年に「琉球藩」となります。以後、1879(明治12)年に「沖縄県」になるまでの過程は、「琉球処分」と呼ばれていますが、公的に琉球国として扱われていた奄美群島も、明治時代に鹿児島県に編入されてはいますが、決して無関係ではありません。明治時代に移行しても、砂糖利権については、基本的に薩摩藩統治時代と変わらず、鹿児島県により独占されていました。

しかし明治の中期になると、奄美は経済的に切り離され、独立経済となり、大島紬、カツオ漁、林業などの新しい産業が発展し、それは1940年頃まで続きました。

奄美大島の要塞司令部近くに置かれた手安弾薬本庫跡、海峡西口の西古見砲台跡及び加計呂麻島の海峡東口の安脚場砲台跡からなる奄美大島要塞跡は2023年(令和5)年、国指定史跡となりました。

※見学が可能ですが崩落の危険性もありますので安全に十分ご注意ください。
瀬戸内町西古見にある「掩蓋式観測所【えんがいしきかんそくじょ】」

島尾敏雄

1944年(昭和19)年10月、加計呂麻島に第十八震洋隊※が置かれ、後に作家(代表作「死の棘」)となる島尾敏雄が隊長として赴任しました。この時に島の娘ミホと出会い、戦後に結婚します。

※日本海軍が太平洋戦争中盤以降に開発・実戦投入した特攻兵器(小型特攻ボート)

鹿児島県立奄美図書館には前身の鹿児島県立図書館奄美分館初代館長時代(1955(昭和33)年)の住居を再現した島尾敏雄記念室があります。

アメリカ世 [アメリカユ]

昭和20年8月 太平洋戦争終戦後、
翌21年2月2日からアメリカ軍政府統治下におかれる。

敗戦後、種子島・屋久島の南側となる北緯30度以南の南西諸島は、米軍の占領統治下に置かれることになります。

ここから8年間にわたる「米軍占領統治時代」が始まります。

1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約締結後も返還されず、本土との分離により、経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきた島民は密航などにより物資を手に入れるしか、他に方法がありませんでした。

分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名は14歳以上の住民の99.8%に達し、ガンディーの運動を真似て集落または自治体単位でハンガーストライキが行われました。

現代

1953(昭和28)年12月25日に日本復帰。
再び鹿児島県の行政下となる。

奄美群島の日本復帰後、1954(昭和29)年に制定された「奄美群島復興特別措置法」(現在は「奄美群島振興開発特別措置法」)に基づいて復興事業が進められていきます。奄美群島だけで許可されている「黒糖焼酎」の生産も、そうした事業の一環として、日本復帰直後に開始されたものです。

またこのころ、大島紬も復興を果たし一大産業となり、昭和50年代頃まで隆盛を誇りました。

田中一村

彫刻師の父の指導のもと、十代から南画家として活躍しましたが、なかなか中央画壇に認められることはなく、昭和33(1958)年12月、50歳の一村は、新たな自分の表現を追い求め、単身、奄美大島へ渡りました。

奄美での一村は、絵を描くために紬工場で染色工として働き、孤独と切り詰めた生活の中でも、の画家としての信念を貫き、亜熱帯の動植物をモチーフに新たな日本画の世界を創造しました。

田中一村記念美術館では、約80点の作品を絵画を見ることができます。

元ちとせ

奄美民謡大賞受賞を17歳で受賞するなど島では知られた唄者であった彼女が2002年「ワダツミの木」で歌手としてメジャーデビューしました。

オリコンシングルチャート1位、80万枚を超えるセールスを記録し、一躍、奄美大島の名前は全国的に知られることとなりました。

このことは、出身者や在住者の心に大きな影響を与えました。

2021(令和3)年7月26日、奄美大島・徳之島は沖縄本島北部・西表島とともに「世界自然遺産」として登録されました。

参考サイト: 奄美市:奄美の歴史・日本復帰関連 / 電子ミュージアム奄美:奄美の歴史