みっけ、歴女になる。Vol.2 ~黒糖栽培発祥の地・大和村で、奄美のサトウキビ栽培に想いを馳せる~
島コト
2019/04/03
三谷晶子
本場奄美大島紬のテディベア、「みっけ」が奄美を旅するパペットアニメーション「あまみっけ。」。
奄美大島の美しい景色とハートフルなストーリーが楽しめる動画です。
さまざまな旅をしてきたみっけちゃんですが、今回のテーマは題して「みっけ、歴女になる。」。
みっけと一緒に奄美の今昔を知る旅を楽しみましょう。
第2回目となる今回は、奄美大島の特産である黒糖の歴史をたどります。
黒糖の原料であるサトウキビは、奄美大島北部を中心に栽培をされていますが、実はこれは海の外からやってきたものなのだといいます。
そこにはどんな物語があるのでしょうか。さっそく、みっけとともに奄美の歴女になる旅にでかけてみましょう。
みっけ、歴女になる。Vol.1 ~奄美博物館で、奄美の今昔を知る~
『黒糖発祥の地』、大和村のひみつ
海の向こうからやってきたというサトウキビ。
それはいったい奄美大島のどこにやってきたのでしょうか。
調べてみると、その答えは奄美大島の中西部、東シナ海に接する「大和村」にあると聞き、みっけはさっそく大和村役場へ向かいました。
大和村教育委員会の和泉豊一さん(右)と、大和村地域おこし協力隊の三田もも子さん(左)が、大和村がなぜ黒糖発祥の地と呼ばれるのかを教えてくれました。
大和村にある戸円(とえん)集落は、黒糖の原料であるサトウキビを日本で初めて栽培したところだと言われています。
その由来は、約400年ほど昔、直川智(すなおかわち)という大和村・大和浜出身の男性が、奄美大島から琉球(現在の沖縄)に向かおうとした時に台風にあい、中国の福建省に流されたことから始まりました。
直川智は、一年半ほど、中国でサトウキビの栽培方法を学びます。
当時、中国では、サトウキビの栽培技術と黒糖の製糖方法を外国人に教えることは禁止されていましたが、直川智は、その方法をこっそりと習得。
そして、奄美大島に戻るときに、底を二重にした衣装箱にサトウキビの苗3本を隠し、持ち帰ったのです。
それはまさに命がけのことでした。
奄美で初めてサトウキビを植えた場所、磯平パーク
奄美大島に戻ったあとも、直川智は、ひっそりと、サトウキビを育てました。その持ち帰ったサトウキビを初めて植えた場所が大和村にある「きびの郷・磯平パーク」。
人目につかないことを重視した直川智の気持ちが頷ける、いわゆる断崖絶壁の場所です。
そうして、育てた黒糖は、奄美大島の基幹産業として、多くの島の人々の暮らしを支えました。
しかし、最近のNHKの大河ドラマ『西郷どん』でも話題になったように、奄美大島はその後、薩摩藩から、サトウキビ栽培を強制されてしまいます。
その頃の島民たちは、自分たちの食べるものを作る暇すらないほど、ひたすらにお金になるサトウキビ栽培をし、そのお金はすべて薩摩藩に吸い上げられてしまったそうです。
薩摩藩が明治維新を行うことができたのは、そのサトウキビ栽培で得たお金があったからだとも、奄美大島では広く伝えられています。
サトウキビの悲しい歴史、苦い思い
そういった、悲しい歴史に繋がるサトウキビ栽培を島に持ち込んだ人間として、直川智及び親族は、島内で後ろ指を指され、村八分になったこともあったのだとか。
けれど、明治10年。明治維新も終わり、直川智の功績を今一度、きちんと称えよう、という動きが持ち上がります。
そこで、直川智を祀った神社を建設しようとした時に、真っ先に手をあげたのが大和村でした。
「きっと、あの時は村八分にしてしまったけれど、本当はそんなことはしたくなかった。直川智は島を支えるためにサトウキビを持ち込んでくれたんだ、と大和村の人々は思い直したんじゃないかと思います。だから、真っ先に手を上げたんです」
大和村教育委員会の和泉さんはそう語ります。
その神社の名前は、開饒(ひらとみ)神社。
境内の横には、神社を建設する際に巨額の寄付をした人々の名前が彫られた石碑がずらりと並んでいます。
記された工場名や団体名は、奄美群島全域で製糖や黒糖にかかわる仕事をしている人々のもの。
その人々が、そろって「神社建設のための寄付をしたい」と手を上げたのです。
かつて、サトウキビ栽培は、悲しく辛い歴史に繋がってしまいました。
けれど、そのサトウキビが、今、自分たちの暮らしを支えてくれている。
その事実をもう一度、噛み締めて、称える。
そういった意味合いで、開饒神社は建設されたのでしょう。
開饒神社に託された、人々のこころ
開饒神社の名前は、「富を開く」という意味。
サトウキビは、確かにわたしたちの富を開いてくれた。
そのきっかけとなった、直川智のことを、わたしたちは忘れない。
開饒神社には、奄美群島全域の、黒糖にかかわる仕事をしている人々の気持ちが込められています。
実際に、今も、製糖工場や奄美黒糖焼酎の酒造に携わる人々からの参拝があとを絶たないのだとか。
さまざまな遍歴をたどりながらも、先達への敬意を忘れない、大和村の人々の気持ちに、みっけは胸が熱くなる思いでした。
ちなみに、開饒神社の近くで行われるひらとみ祭りは、奄美大島ではとても有名なお祭り。大和村の青年団が、来場者の喜んでくれる顔を見たいがために、花火や舟漕ぎ競争、屋台を用意してくれているそう。
また、大和村立大和小学校では、現在、子どもたちに黒糖発祥の地である大和村の歴史を忘れないために、校内にちいさな畑を作り、サトウキビを栽培しています。
大和小学校の裏手のサトウキビ畑にお邪魔したみっけ。
収穫したら老人会の方に教えてもらって、子どもたちで黒糖を作るのだとか。
現在、大和村では、平地が少ないのと、果樹の栽培のほうが盛んなこともあり、黒糖は栽培されていませんが、こうして、黒糖発祥の地であることを忘れないよう、さまざまな取り組みが行われているのです。
歴史探索のあとは、海辺のお店でゆっくり
黒糖の歴史を探ったあとは、国直海岸に新しくできたお店、Bee Lunchへ。
大和村の名物である、すもものジュースをビールで割ったすももビールは、甘酸っぱくさわやかな味。
おつまみから、ご飯もの、麺類まで充実したメニュー構成のBee Lunchは、通常は昼11時から夜まで営業しています(不定休)。
ランチタイムを逃すと、ごはんを食べるところが少なくなる奄美大島では、とってもうれしい存在のお店です。
甘い黒糖ができたのも、時に辛く、時に苦い思い出とともに、それでも歩もうとした人がいたからこそ。
黒糖発祥の地、大和村で学んだことをみっけは胸に抱いて、帰りに大和村まほろば館で黒糖をおみやげに買って帰りました。
写真撮影╱サイトウダイスケ
この記事を書いたフォトライター
三谷晶子
作家、ILAND identityプロデューサー。著作に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。短編小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。2013年、奄美諸島加計呂麻島に移住。小説・コラムの執筆活動をしつつ、2015年加計呂麻島をテーマとしたアパレルブランド、ILAND identityを開始。