時の流れを感じながら歩く 奄美の歴史のまち・笠利町赤木名の夕日
島景
2016/10/26
トウコ
奄美大島の北部、奄美市笠利町に「赤木名(あかきな)」、通称『ハッキナ』と呼ばれる集落がある。
赤い屋根が建ち並ぶ県道602号線沿い。その先に広がる赤木名海岸では、地元の方いわく「ここでしか味わえない夕日」が見られるという。
赤木名の夕日を見たことはあったが、じっくりと観賞したことがなかった私は、「今日は夕暮れまで、集落を歩いてみよう」と、車を降りた。
赤木名はその昔、本土から南へ向かう人達の、奄美の海の玄関口として栄えた。
藩政時代には、大島全体を統治する行政機関が置かれ、薩摩藩のお役人が出入りしていたという。
史跡巡りが好きな私は、当時の薩摩藩の拠点「代官所跡」を探した。
お目当の場所には、イヌマキの木とサンゴの石垣が残されていた。建物はもう無く、空き地が広がっている。きっと立派なお屋敷が建っていたに違いない。
もうひとつ、見ておきたい史跡があった。
幕末の志士「西郷隆盛」が背もたれしたという柱。
集落内の「中金久学舎」という建物の中に残されているらしい。
西郷は奄美に2回来島し、その際、赤木名で島人と勉強会をしたそうだ。
その時に使われた建物が「中金久学舎」だったという。
現在、建物は移築され、柱は新しく建て替えられた「中金久学舎」の一角に飾られている。
ここは普段、集落の人が地域行事に使う建物なので、出入りは自由にできない。
建物を管理している方にお願いして、特別に中を見せてもらった。
柱の下に何か書かれている。
そこだけ色あせた柱の様子が、移り行く時の流れを感じさせた。
学舎を出て、車が一台やっと通るか通らないかの狭い路地をぬけ、ゆったりと流れる前田川へ出る。
川のそばで釣り糸を垂らす子供達。
穏やかな光景を眺めながら、川沿いを河口へ向うと、やがて大きく視界がひらけた。
白くて美しい砂浜、遠浅の海がつづく「赤木名海岸」。
沖の方には、湾内を見守るように立っている岩礁「赤木名立神」が見える。
毎年6月20日前後になると、ちょうどこの立神あたりに日が落ち、一年のうち最も美しいサンセットがみられるという。
秋口の今は、水平線の左側、山間部へと日が落ちるはず。さて、どんな夕日が見られるのか。
日没を待ちながら、遥かむかしの赤木名海岸に想いを馳せてみる。
当時は防波堤のようなものはなく、浜辺にはモクマオウの木の代わりに、アダンの木が生えていた。
本土から来る船は、まずこの赤木名に立ち寄ったあと、名瀬、古仁屋へと向かった。 沖で待つその船に、人や物資を乗せるため、海岸からは小さな船が出ていたという。
古くからこの海岸沿いに住み、戦前戦後の赤木名を見てきた古老の話だが、海は今よりもっと遠浅で、カニや貝、エビなどがたくさん獲れたという。
県道沿いは、お店が隙間なく建ち並び、方々からの買い物客で賑わった。
藩政時代の赤木名も、きっとそんな姿に近かったのではないだろうか。
ノスタルジックな気持ちに浸っていると、太陽はだんだんと山間へ。
オレンジ色だった空が、夕映えでどんどん赤みを増す。
真っ赤に染まる波打ち際。
空と海のほかは、すべてシルエットに変わる。
ながい時を経て、今の姿にたどり着いた赤木名。
藩政時代を生きた人達の足跡が、のちに続いた私達の「今」になった。
時の流れの中で生きていることを実感しつつ、私達ならどんな足跡を残して行けるのだろうかと、「ここでしか味わえない夕日」を見つめ続けた。
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※「赤木名」は正式な地名ではなく「外金久・中金久・里」の、3つの集落を合わせた総称です。
この記事を書いたフォトライター
トウコ
関西出身。縁あって奄美で結婚。転勤族の夫と供に奄美群島各地を回り、2015年奄美大島に落ち着く。奄美の島々を回るうち、各地の風土・風習・歴史の違いに強く惹かれ、大好きな絵や文を通じて、その魅力を発信していきたいと思うようになる。