「立神」のことをなにも知らなかったくせに私は
島コト
2019/03/16
竹内 聡
『ネリヤカナヤからやってくる神様にとってその岩は道しるべ』
奄美大島で「立神(たちがみ)」と呼ばれる巨岩はそんな伝説をまとって佇んでいる。
シマ(集落)からほど近い沖合いに浮かぶ小島である立神には神様が最初に立ち寄ると言われ、古(いにし)えから信仰の対象とされてきたそうだ。
海に浮かぶその厳(おごそ)かな聖地に近づいた人々の中には、得も言われぬパワーを授かる者も多いと聞く。
立神の名は1700年頃には既に奄美の各地に存在していた。
航行の指標ともなっていただろうその岩は、奄美大島の沖をぐるりと囲み、まるで外からの邪気が侵入するのを守っているかのようだ。
とある口承によれば、奄美という島はプカプカと海に浮いているのだ、という。
そこで波や風にさらわれないために立神が鋲の役割を果たしているのだそうだ。
地底にまで届くその神通力によって、太古より奄美は奄美で居続けられていたのだろう。
今回私は神聖で尊いその立神を巡り、それぞれの物語や伝説を収集しようと決めた。
そして「祈り」を捧げることで、それらから降り注ぐ神秘的なパワーを頂くべく各地に歩みを進める。
奄美市笠利町 節田立神
島の北部、節田(せった)集落に浮かぶ立神は、その神々しい容貌から遠景でも特異の存在感を放つ。
集落の歴史をよく知る方にお会いさせてもらい、一つの興味深いエピソードを聞くことができた。
「凡人にはわからん話だったなー」
と昔を振り返りながら話してくれたのは集落の区長、栄さん。
40年以上前の話、不思議な夢知らせを聞いたある一人の男性が島外からやってきた。
彼はこの節田立神のほとりに財宝が眠っているとのお告げを受け、ツルハシや重機を持ってはるばる遠方からやってきたのだった。
アルバイトとしてその発掘を手伝った、当時・学生の栄さん。
作業はある程度の期間続いたそうだ。
それで、いったい何が掘り出されたのか、と私は尋ねた。
栄さんはすぐにこう言った。
「何も出なかったんじゃない?」
パチン、と胸の奥で膨らんでいた何かが破裂した。
「そのあと何も言ってこなかったもん」
と続けた区長。
そんな、馬鹿な。
この節田立神には、神秘的なパワーは無いというのだろうか?
栄さんはさらにもっと昔の思い出を話してくれた。
「子どもの頃はねぇ、岩の頂上まで登って遊んだもんだよ」
なんとショッキング…。
「神」そのものであるはずの聖なる岩に近づくどころか、登ったと言う。
バチは当たらないのだろうか…?
私はあまりのイメージとのギャップに事実を飲み込めずにいた。
しかし私は、それを話す区長さんが、まるでじいじやばあばと一緒に遊んだのを思い出すようなあたたかい表情を浮かべていることに気づいた。
集落行事においてもそっと寄り添うように居続ける立神は、さながら先祖そのものなのかもしれない。
節田は奄美空港からほど近い集落で、取材している間にも何度も飛行機が通り過ぎる光景を目にした。
着陸直前の飛行機を眺めながら栄さんはこう言った。
「本土から帰ってきて立神を飛行機の窓から見るたびに、『島に帰ったきたやー』っち思うんど」
誇らしげに集落の象徴を語る区長さんの面持ちを見ると、それは奄美のウェルカムボードそのものだと思った。
今回の巡礼の事前準備として、私は島内各地の様々な立神が写った写真を持参していた。最後に、栄さんにそれを見せると
「あげー、やっぱりワンキャ(俺たち)の立神が一番立派じゃや〜」
と少し嬉しそうに呟いた。
瀬戸内町 西古見立神
次に私は島内南部・瀬戸内町の集落、西古見(にしこみ)へ車を走らせた。
島で最も西に位置する集落の沖には、「三連立神」と呼ばれる3つの奇岩群が美しく配置されていた。
天から舞い降りた神様が島へと歩む飛び石のように並ぶその域は、人を許さないオーラを帯びた聖地そのもの。
運転しながらも私の胸にある何かは三連立神を横目で見るたびに動き始め、それは集落に近づくにつれて次第に大きく強くなっていった。
西古見に着いたら商店の物知り姉さんに聞き込みをする。情報収集が楽しみだ。
きっとこの海域は、漁も水浴びも許されないような神の領域なんだろう。
「いや?潮干狩りなんてよくしたよ。大潮の時はこぞって立神まで歩いて行ってね」
再び予想外のエピソードを聞いた私は、心の中で何かがシナシナとしぼんだ音が聞こえたようだった。
貝も魚も獲っていいんだって!?
加(くわえ)商店の加さんは一度だけ船で立神まで連れて行ってもらった時の思い出も話してくれた。
「真ん中の立神の目の前には、サンゴで囲まれた天然のプールがあって。これがまたとっても綺麗でね」
またも裏切られた…と驚きを隠せない私だったが、いったい何に裏切られたのだろうと我に返った。
自分で勝手に変な期待を持っていただけに思えてきた。
「夏になると真ん中と右の立神の間に、太陽がゆっくり仕舞われていくの。辺り一面真っ赤に染まりながらね」
その最高の時間が迫ると、加さんは「10分間のドラマを見に行かんかい」と集落の人たちに声がけするそう。
すると皆おのおの用意した缶ビールやおかず一品を持ち寄って海岸へ出る。
美しく沈みゆく夕陽の中、そこで始まる小さな宴会(お茶会)を加さんはオープンカフェと呼んでるそうだ。
「昔から普通にあるものなんだけどねぇ。」
西古見集落の人たちもまた、立神を拝み崇めているわけではなかった。
生活をしながら自然と寄り添う。
みんなにとってそういうものなのだ。
節田の時と同様に、他の集落の立神の写真を加さんに一通り見てもらった。
「まぁでも、うちのシマのが一番じゃや」
同じこと言っている!
なんだか可笑しかった。
大和村 今里立神
島の北西部の果て、中国や韓国にもっとも近い集落が大和村の今里(いまざと)集落である。
「立神についてお話を聞きたい」とお願いしたら、集落のお姉さんたちがワイワイとこぞって公民館に集まってきてくれた。
今里はかつてカツオ漁で隆盛を誇っていた集落。
当時は立神が漁船の乗り降りのためのはしけ船を停泊しておく船着場だったそうだ。
正に集落の経済をつなぐ橋渡しを、巨岩は身体を張って担っていたのだ。
「立神の裏はなだらかで登れるっちょ。そこでよく釣りしたもんじゃや」
集まった人たちから次々と逸話が出てくる。
「昔、大棚(おおだな。今里から少し離れた、同じ大和村の集落)からイカ釣りに出て行ったおじさんが居てね。荒波で舟から投げ出されたその人は荒れ狂う海に飲まれた末、立神に漂着して一命を取り留めたんだっち」
その釣り人は『立神おじさん』と呼ばれているらしい。
「守ってくれているんど」
そう教えてくれた公民館の人たちだったが、守り神には何も祈らないし、何か賜ることもない。
島ッチュは、あたかも同窓生のように立神という「神」と肩を組みながら遊び語り合っているだけだった。
そして私は、雲の向こうの世界に想いを寄せて、自分に都合の良い妄想を巡らせているだけだった。
神様とお友だちの島ッチュに諭されたのかもしれない。
集落の人たちが、思っている。
ただそれだけのことでいいのだ。
今里のお姉さんたちにも他の立神の写真を見比べてもらった。
「やっぱり、どこから見てもうちのが一番じゃや!」
この記事を書いたフォトライター
竹内 聡
フリーライター/ゆりむん(漂流物)収集家。造園の大学を卒業後、ソーラーの営業マンとして関東を奔走していたが、島の「結い」という呪いに導かれて移住。奄美のラジオ局で島の酸いも甘いも辛いも知る。現在は黒糖焼酎の酒造会社に勤めながら、観光ガイド、島の植木調査、島グチ研究、ロケーションコーディネート、仮面制作などで自らを表現しながら島を考え続ける、奄美で最もこだわりのない暗中模索人。