奄美島唄を全国に知らしめた唄者「築地俊造」さん~伝統と革新の島唄を語る
島唄
2016/05/10
麓 卑弥呼
押しも押されもせぬ、名実ともに奄美島唄界のトップに立つ唄者、築地俊造さん。寝ても覚めても三味線を弾き鳴らし鍛錬した島唄は、全国一の栄冠に輝き、「奄美島唄」を全国、世界へ広めるきっかけとなった。80歳を越えた今も枯れることのない情熱と唄声で、奄美島唄界を牽引(けんいん)している。
「自分がやるべきものはこれ」 引き込まれ、熱中した島唄の魅力
1934年、奄美市笠利町川上に生まれた。父親は唄者だったが、自身で唄ったり学んだりはなかったという。一度島を離れ、30代で帰島。そこで自らの運命に気づく。
「近所から聞こえるサンシン(三味線)や島唄に非常に心惹かれてね。たまらなくなった。自分のやるべきものは、これなんだと思った」。
それまでは特に何に熱中することもなく、「ブラブラしていた」という築地さん。この気づき以後、まさに島唄に”のめりこむ”道を歩むこととなった。
「日本一」にはなったが「島一」にはなっていない
寝ても覚めても島唄三昧の生活を送っていた築地さんに、1979年、45歳のときに転機が訪れる。
「第2回日本民謡大賞全国大会」への出場。全国から集まった民謡の歌い手に混ざり、最高潮の緊張感に包まれながら、3万人を前に「まんこい節」を歌い上げた。
そして、与えられたのは満場一致での大賞受賞という最高の栄冠。
「それはもう、わけがわからん状態。ただ、審査員が『あなたの唄には心がある。これからはこういう唄でないといけない』と言っていたのがうれしく、心に残っている」。
まさに、全国に奄美島唄の存在とその魅力を十二分に知らしめた出来事だった。これを機に国内外からイベントへの出演依頼が殺到。忙しい日々を送ることになるが、帰島したときにはこう述べたという。
「自分は全国一になったが、島一にはなっていない。シマには自分よりうまい人がたくさんいるのだから」。
誰もが楽しめる島唄に 「今の奄美を歌うことができたら」
気さくでユーモアあふれる人柄で「俊造あに」と親しまれる築地さん。現在もイベントへの参加や後進の指導にあたっているが、最近は、島唄の形が変わっているという懸念を抱く。輪になり歌を掛け合って遊んだ本来のものから、近年は舞台用の島唄になっているという。
「『歌う側』と『聴く側』とにはっきり分かれ、誰もが楽しめるものではなくなってしまった。島唄とは、書かれざる島の歴史や人々の生活史。先人たちの生活を歌うだけではなく、今の奄美に生きる自分たちの歌を歌うことで、”生きた歌”になるのではないか」。
次々と言葉が続いていく。
島唄にのめりこみ、練習を重ね誰よりもその魅力の深淵を知るからこそ、島唄の未来と変革への熱は潰(つい)えることはない。
※2017年、死去されました。享年 82歳。すばらしい歌声を伝え、届け、残していただきました。これからも築地さんの歌声は島人のなかに生き続けていきます。
この記事を書いたフォトライター
麓 卑弥呼
ライター/しーまブログ編集長。東京都出身。大学時代に訪れた与論島にはじまり、縁あって奄美大島の新聞社に新卒で就職。さらに縁あって島人と結婚し、自らが島人となり奄美に完全に根を下ろす。フリーライターなどを経て2014年にしーまブログに入社し、現在に至る。