【奄美の七不思議その5】龍郷町の大島紬は遥か昔の宇宙からの贈り物?!
島コト
2018/06/28
田中 良洋
こんにちは。なおこです。
今回の奄美の七不思議は私、なおこがお送りします。
突然ですが、龍郷町には加世間峠という有名な絶景スポットがあるのをご存知でしょうか。
2つの海が見える場所とも言われ、東シナ海と太平洋が見える珍しい場所です。
この東シナ海側の海、実は隕石が落ちてできたと言われています。
隕石の謎は本当なのか、そして隕石が奄美大島にもたらした影響とは?!
本当に隕石が落ちていて、今もその影響があるなら十分に七不思議と言えるのではないでしょうか!
今回は龍郷町と隕石の関係について調査します!!
龍郷町で隕石の情報収集
まずは龍郷町役場の企画観光課で働く久保さんにお話を聞いてみました。
「隕石について調べているんですけど…なにかご存知じゃないですか?」
「隕石?あぁ、奄美クレーターのことか。」
「ご存知ですか?」
「知ってるよ。昔は龍郷町のクレーター近くの赤尾木という集落では各家庭に隕石のカケラがあると言われてたくらいだからね。」
「各家庭にあったんですか?!」
「らしいよ。詳しいことは生涯学習センターで龍郷町のガイドブックを見てみると載ってると思うよ。」
「ありがとうございます!見てみます。」
「あとは奄美大島の大島紬が隕石に大きく関わっていると言われているよ。」
「大島紬がですか?」
「そう、大島紬の泥染めができるのは隕石のおかげだってね。」
「泥染めと隕石が関係しているんですか?」
「うん、詳しいことは大島紬村の会長さんに聞いてみるといいよ。」
「わかりました!ありがとうございます。」
久保さんのアドバイスをもとに、隕石について調べに、龍郷町生涯学習センターりゅうがく館へやってきました。
龍郷町のガイドブックを見てみると…
確かに隕石の記事がありました!
「昭和45年に鹿児島ラサール高校の山口志摩雄、前田一夫、町田明哲の3教諭が、赤尾木集落に伝わる星窪の由来話から赤尾木湾一帯を原始調査して発見…。多年にわたる調査によって、星窪や赤尾木湾の円形地は隕石落下が原因でできたものと推定されました…。」
「隕石の落下は本当だったんだ…。」
調査によっては隕石落下はなかったとする説もあるようですが、昭和45年の調査では隕石によるものと考えられたようです。
「でも、隕石がなんで大島紬と関係しているんだろう?」
大島紬と隕石の知られざる関係
というわけで、大島紬と隕石の関係を調査するため、大島紬村にやってきました。
今回は大島紬村の会長である越間多輝鐘さんにお話を伺いました。
「早速ですが、大島紬と龍郷町に落下した隕石が関係しているという話は本当なんですか?」
「本当ですよ。大島紬は絹糸を泥染めする工程があるのですが、泥染めは泥田の鉄分がとても大切です。この辺りは星窪と呼ばれる場所がたくさんありますが、隕石のカケラが落ちてできたと言われているんですね。隕石に鉄分が多く含まれていたため、この辺りの土壌は鉄分が多く含まれています。なので泥染めに適した場所だったんですね。」
「隕石の鉄分によって泥染めができるようになったということですか?」
「そういうこですね。」
「隕石が関係しているってそういうことだったんですね。隕石はどのくらい前に落ちたんですか?」
「いつかは分からないですね。何千年か、何万年前か…」
「なるほど。ちなみに大島紬はいつからあるものなんですか?」
「今の製法がいつからかは定かではないんですが、古いものだと弥生時代、魏志倭人伝の卑弥呼の時代まで遡ります。」
「そんなに?!」
「今の喜瀬集落の遺跡に紡錘車といって、糸によりをかける円板状の石車が出て来たんです。石車は木綿や麻には使用せず、ほとんど絹糸に使っていました。この石車が出てきたということは、2000年前の弥生時代には大島紬の始まりがあったのではないか、と学者の推測では言われています。」
「大島紬の歴史ってそんなに古いものだったんですね。」
「ちなみに歴史上奄美が文献の中で見つかっているのは2つです。まずは奈良時代の734年、日本書紀に記録されています。この時代、奄美は大陸と大和朝廷の中継地点だったんですね。『阿麻弥人』という記述が文献の中に見つかっています。『あまみじん』と読めるので、おそらく奄美のことだと言われています。」
「日本書紀にも出てくるんですね!」
「次に出てくるのが江戸時代。暴れん坊将軍、徳川吉宗の時代ですね。この年、薩摩藩が奄美島民は特別な人以外は絹織物の着用を禁止する『紬着用禁止令』を出しました。奄美の人は紬を織っても自分たちでは着れなかったのです。この文献から、江戸時代には奄美の人にとって紬は一般的なものだったんじゃないかと考えられます。献上品としても使われたようで、井原西鶴の好色盛衰記にも大島紬が登場しており、『大島紬を着て街を歩くとおっかけがついた』と書かれています。」
「織るのに着れないって悲しいですね。」
「薩摩藩は大島紬によって財政を立て直したんです。明治維新を支えたのは奄美と言っても過言ではない。江戸時代、島津家の薩摩藩は破産寸前でした。幕府から任された木曽川の修復工事にも、国家レベルの資金が必要だったと言われています。そんな窮地の中、薩摩藩の財政を支えたのが奄美大島の大島紬と黒砂糖だったんです。」
「奄美大島がなかったら明治維新は起こってなかったかも知れないですね。」
「そうなんです。隕石の話とは少しズレてしまいましたね。どうです、大島紬の製造過程を見てみませんか?」
「お願いします!」
大島紬の細かすぎる製造過程
「大島紬では染色の工程がとても大事です。車輪梅の木を煎じて染料を煮出します。この染料の成分であるタンニンと泥田に含まれる鉄分が化学反応を起こして黒く染まるんです。1回やれば染まるわけではなく、80回繰り返してやっと大島紬の黒に染まります。」
「80回も繰り返すなんて、根気がいりますね。。。」
「こちらが泥田です。水がとても綺麗なことと、泥が細かいのが特徴です。泥の粒が荒いと糸を傷つけてしまいます。絹糸のきめ細やかさを保ったまま染めれるのは、奄美大島の龍郷町の土壌があってこそなんです。」
「他の場所ではこういう泥染めはしていないんですか?」
「染色しているところはありますが、他の紬はせいぜい2、3回しか染めません。なので褐色をしています。大島紬のようにしっかりした黒色を出せるのはここだけです。渋さが独特で、京都の染色屋も『この色だけは出せない』と言っていたそうです。」
「そんなに独特なんですね。でも、なんでわざわざ泥につけようと思ったんですか?」
「確かなことは分かりませんが、一説では、江戸時代に役人に紬の存在が見つからないよう泥の中に隠しておいたら色が変化していたのがきっかけと言われています。」
「ここに飾られているのが大島紬の設計書です。大島紬の特徴は先染めであることです。つまり、糸にあらかじめ色をつけておくんですね。そのためどこが何色になるかイメージできていないといけません。そこで使われるのがこの設計書です。細かい方眼紙の一点一点が何色になるのか決めていきます。今でこそパソコンで作業しますが、昔は方眼紙にひとつずつ色をつけていました。」
「ひとつひとつですか… (頭痛くなりそう。。。)」
「設計書ができたら実際に織っていきます。大島紬にはこれだけの工程があります。」
「41工程もあるんですね…」
「大島紬に使われる糸は、まゆの糸を60本くらいより合わせて作っています。一反作るのに使っているまゆの糸を繋げると、奄美大島からどこまで行けるくらいの長さになると思いますか?」
「え?どのくらいだろう…鹿児島本土くらいまでですか?」
「約1700kmです。奄美大島から岩手県まで行ける長さのまゆの糸を使っているんです。」
「岩手まで?!?! (果てしない…)」
「糸に色をつけたら縦糸と横糸を織り込んでいきます。」
「わぁ、柄ができてる!綺麗ですね!!」
「設計図の通りに色をつけて織っていきますが、5、6センチ織ると柄がズレてきます。そしたら目で柄を確認して、ズレているところは手で調整します。」
(どこがズレてるのか全く分からない…)
「織っては微調整、織っては微調整ですのでね。一日8時間作業しても20〜30センチしか進まないですよ。」
「8時間で2、30センチ?!?!」
気が…
遠くなる・・・
隕石の成分はもちろんですが、この細かい生産過程こそ宇宙の神秘のような気がしてきます。
この一連の作業こそ、小宇宙(コスモ)ではないでしょうか!
宇宙からの贈り物とも言える奄美大島紬。知れば知るほど魅力的な伝統工芸です。
龍郷町に訪れたときには、奄美クレーターと大島紬から宇宙の神秘を感じてみてはいかがでしょうか。
拾った石が実は隕石のカケラかも知れませんよ!
奄美の不思議でたまらないことを探求する連載。
全7回でお届けします。
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この記事を書いたフォトライター
田中 良洋
映像エディター/予備校スタッフ 兵庫県出身。奄美群島の文化に魅かれ、2017年1 月に奄美大島に移住。島暮らしや島の文化を伝えるために自身のメディア、離島ぐらし(https://rito-life.com/)を運営する。