美しい生垣と祭祀跡〜ルーツ案内人と行く加計呂麻島・須子茂集落
島コト
2018/01/25
三谷晶子
奄美大島からフェリーで約20分の加計呂麻島。
昔ながらの奄美のシマ(集落)の風景が色濃く残るなか、今回は島の西側にある集落、須子茂(すこも)集落歩きを体験してきました。
須子茂集落は「第3回 かごしま・人・まちデザイン賞」景観づくり部門優秀賞を受賞した、きちんと刈り込まれている生垣が美しい集落です。こちらの集落には奄美に古くから伝わる祭祀にまつわる建築物が今も残っています。
(鹿児島県「第3回かごしま・人・まち・デザイン賞」について)
この集落の案内をしてくれるのは奄美群島認定エコツアーガイドの富永誠吾さん。富永さんは須子茂出身。ルーツの方ならではの集落の話を、じっくり聞かせてくれます。
フェリー乗り場で集合、出発!
集合場所は奄美大島の南端の町、瀬戸内町古仁屋(こにや)にあるせとうち海の駅。加計呂麻島、請島、与路島に向かうフェリーが発着する、奄美大島の南の主要港です。
10時20分の古仁屋港発、加計呂麻島瀬相(せそう)港へ向かうフェリー「かけろま」に乗り、まずは加計呂麻島のふたつある港のひとつ、瀬相港へ。
フェリーの発着時間に合わせて運行される加計呂麻バスに乗り込み、須子茂集落に向かいます。
須子茂集落までの道はバスで30分弱。11時08分に到着です。
集落で取り合い?! 目の前に離れ島
美しい海の目の前には、ぽっかりと浮かぶ無人島が見えます。こちらは「須子茂離(すこもばなれ)」という名前の島です。昔、須子茂の隣にある集落、嘉入(かにゅう)と西阿室(にしあむろ)の3つの集落で取り合いをしたという伝説が残っているそう。
どの集落のものとするのか、勝負は「イショブネ」と呼ばれる伝統の木の船で決めることになりました。一番早く無人島に着いた集落が勝利なのですが、富永さんいわく、須子茂は堅くて重い木で船をこぐ「かい」を作り、最初は出遅れたのだとか。しかし、波に乗り始めたらぐんと早くなり、結果、須子茂が一位になったといいます。
だから、「須子茂離」という名前なんですね。
ご出身の方ならではのディープなお話しを伺いながら、集落の中心部に向かいます。
いまも残る、大切な祭祀関連跡
奄美には、集落の中心にミャーと呼ばれる広場があり、真ん中に土俵があります。
(この日はブルーシートがかかっていました。)
そして、その広場(ミャー)の中に、アシャゲと呼ばれる五穀豊穣を祈る場所があります。
また、もうひとつトネヤと呼ばれる祭祀をつかさどる場所があります。
「アシャゲ」「トネヤ」といった、昔は各集落にあった祭祀儀礼とつながっている場所。これらが今も残されている場所は加計呂麻島でも限られていますが、須子茂はそれらが集落内に二か所、ほぼ昔の姿で残されている点で注目を集めています。
奄美で祭祀を司るシャーマン、ノロ(祝女)の祭祀が、須子茂では昭和40年代まで行われていたそう。ノロは、集落の繁栄、五穀豊穣、災厄をはらうなど、時期ごとにある祭祀をすべて司る女性の祭祀集団でした。須子茂の65歳以上の女性は、全員ノロになっていたと言われています。
アシャゲの横にある集落の守り神、イビガナシの横にはそのことが記されている看板が。
この集落ではオボツカグラと呼ばれる天空から訪れる神々と海の彼方のネリヤカナヤから訪れる神によって豊穣と繁栄がもたらされると信じられていました。ノロの人たちは、カミミチという道を通り、ミャーで祭祀を行います。そして、海のかなたの聖地、ネリヤカナヤに向かって祈りを捧げます。
こちらがカミミチ。人が一人通れるぐらいの細い道ですが、きれいに保存されています。
こちらはもうひとつの広場。トネヤは残っていませんが、古いアシャゲが今も残り、その横には力石と呼ばれる石があります。
昔、力比べに使われたといわれるこの石。持ち上げることができた女性は結婚できなくなるという噂もあるとか。
その昔、力自慢の若者が、この石をもって集落を17周したという伝説も残されています。
学校と教育への熱い思い
続いて向かったのは、須子茂小学校。現在は休校中ですが、立派な「でいご」の木が校門と校庭内の二か所にあるかわいらしい小学校です。
こちらには、国の登録有形文化財となっている奉安殿が残されています。
天皇陛下のご神影と教育勅語が納められていた奉安殿はかつては全国各地にありましたが、戦後のGHQによる政策のため、現存しているものは数少なく、加計呂麻島が属する瀬戸内町では珍しく6か所が残されています。
さまざまな意匠をこらした奉安殿は、建築物としても貴重であるのだとか。須子茂小学校の奉安殿は神社建築を模したものだそうです。
また、須子茂小学校には母と子の像というモニュメントが残されています。
この母と子の像は、昭和37年、NHKのラジオ番組で当時の須子茂小学校の校長の投書が読まれたことから始まりました。
当時、加計呂麻島は夜間しか電気が使えない場所でした。昼間は自家発電をしなければ視聴覚教育など電気を使う授業はできない状態でした。しかし、国の補助金が打ち切られるため、自家発電設備を作ることができず、離島における教育に悩んだ当時の校長が、その件をラジオに投書したのです。
ラジオ放送を聞いた大手ゼネコンの鹿島建設の社長である鹿島卯女(かじまうめ)さんが資金援助を申し出、念願の自家発電設備を整備することに。その後も、鹿島卯女さんと須子茂小学校の交流は続き、鹿島卯女さんは出稼ぎなどで夫が留守にすることも多い島の集落の女性と子ども達の支えとなることを願い、この母と子の像を寄贈しました。
学校の裏手には、鹿島卯女さんの資金援助で購入したディーゼル発電機も現存しています。 こういったディープなお話はやはり出身の方のガイドがあってこそですね。
その他にも、海が荒れて定期船が運休した時に、小学校の給食や生活物資を運ぶために島の反対側にある木慈集落まで歩いたという山道や、当時運行していた須子茂集落に直接停まる昭和45年ごろの定期船の写真なども見せていただき、昼食に。
昼食は各自で持参する形。加計呂麻島には飲食店や買い物ができる場所が少ないので、船に乗る前に手に入れたほうがいいでしょう。
ミャーの近くにある休憩所でお昼ごはん。加計呂麻島には、公共のシャワーやトイレがない集落が多いのですが、須子茂集落は完備されたきれいな休憩所があるので安心です。
ゆるりなごむシマのひとたちとの交流
お昼を食べていたら、これから正月用の餅つきをするという集落の方々が集まってきました。
「一緒に餅をついていきな」「なんなら港まで送ってくよ」とまで言ってくれる集落の方々。
富永さんいわく、須子茂集落は特にオープンでフレンドリーな人が多い集落なのだとか。
ありがたいお誘いですが、バスの時間が迫っていたのでここで失礼することにしました。
13時39分の須子茂発のバスに乗って、瀬相港へ。
フェリーの出発前に、瀬相にある物産所「いっちゃむん市場」で加計呂麻島のお土産を物色するのもおすすめ。
そして、大島海峡を渡り、集合場所のせとうち海の駅で解散します。
なんともディープな集落歩きでした。その土地で生まれ育った方に教えてもらうからこそわかる、集落が持つ本当の魅力とあたたかさ。そんなものを、須子茂の集落歩きでぜひ体感してみてはいかがでしょうか。
この記事を書いたフォトライター
三谷晶子
作家、ILAND identityプロデューサー。著作に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。短編小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。2013年、奄美諸島加計呂麻島に移住。小説・コラムの執筆活動をしつつ、2015年加計呂麻島をテーマとしたアパレルブランド、ILAND identityを開始。